MBAコースの「コンテンツ」とは(2)

Sdscn1888昨日は金曜日、ランチ前に3つのセッションを終わらせれば週末ということで、クラス全体がうきうきした雰囲気でした。来週からいろいろなコースで「参加者の発表」が本格的に始まるのですが、そのための準備に「週末に集まって議論しよう」などという意見は、まったく出てきません。聞くと、アフリカからの参加者などは本国では土日も働いている人もいるようなのですが、さすがにここは欧州ということで、エチケットなのでしょうか。

1つ前のエントリで、「自分の中のフレームワーク的な何かが徐々に壊れつつある」と書きましたが、今日はちょっとその話をしようと思います。今回のIFDP参加で、僕にとってはもっともインパクトのあるコースだった、ガルシアポント教授の「Case Method as a teaching tool」」で感じたことについてです(ちなみに、上の写真はガルシアポント教授)。

「スペインの吉田さん発見」のエントリで、この教授の初日のセッションについてはログを交えてご紹介しましたが、このコースはその後初日を含めてこれまでに4回、2コマ連続(つまり2時間30分)のセッションが行われました。その中で起こった変化が、ものすごくドラスティックでした。うまく言葉にならないのですが、とにかく「目から鱗が落ちる」なんて生やさしいものではなく、自分がこれまでビジネススクールで何を教えてきたんだろうと考え直させられています。

彼が取り上げるケースはどれも、「主人公がのっぴきならない状況に追い詰められていてあと何時間かの間に重要な判断を下さなければならない」という状況を描いたものばかりです。しかも、その意思決定へのプロセスが、「これってマーケティングのケースだよね」と予習しながら考えていたものが、議論してみると組織論の話に入っていったり、また戦略の話なのかと思っていたらファイナンスとアカウンティングの分析手法を駆使して解いていくケースだったり、逆にファイナンス上の重大問題があるなあ…と思っていたらリーダーシップの議論が展開されたりと、科目領域を限定しない議論が縦横無尽に展開します。

これに対して、多くの参加者は目を白黒させます。ガルシアポント教授は「我々はビジネスを教えている。ビジネスの現場では『今日の貴方の問題はマーケティングについてです』などと言って問題が提示されるなんてことはあり得ない。マネジャーの目の前にはただ『問題』があるだけなのだ」と言い切るのですが、これに対して「私は○○領域を教えているのに、あの教授の教え方は私の参考にはならない」とつぶやいてさじを投げる参加者がいたり、あるいは「彼の言い分は分かるけど、学生にこういう授業をやってもこのクラスで何が学べたのか分からず混乱するだけだ」と批判する人がいたりします。

また、ケースセッションをやった後に質疑の時間があるのですが、(これは僕も2回目のクラスでそういう質問をしましたが)「いったいこのセッションの『学習ポイント』は何ですか?どういう意図でこのようなクラス展開を選んでいるのですか?」と質問する参加者が必ずおり、それに対してガルシアポント教授は必ず「私のクラスには『学習のポイント』はないし、いかなる意図もない」とだけ答えます。「教育である以上は意図がなければならない」と食ってかかる人もいますが、彼はその人には「意図を疑ってくれてありがとう。でも意図は何にもないです」と苦笑しながら答えるだけです。教育学的な考えにこだわる参加者は、ここでまた切れてしまいます。

【ケースメソッドは「教えることができないものを教える」方法】

こうしたやり取りが華麗でトリッキーな意思決定プロセスのセッションのたびに繰り返されるのを見て、「いったいこれは何なのだろう」と考え続けていました。で、昨日のセッションが終わったあとの質疑応答を見ていて、アルキメデスではないですが、「EUREKA!(分かったぞ!)」と叫びたくなるような、体中に電撃が走るような衝撃が降ってきたのです。

ガルシアポント教授が困難な問題に直面した主人公に感情移入させながら、受講者に「主人公が問題を解決するための意思決定を下すために必要なことを考える」のをクラス内で繰り返してみせるのは、どこかのフレームワークや学びのポイントを学ばせたいからではなくて、「問題を解決していく思考のプロセス」そのものを体感させたいからなんだな、ということに、突然気がついてしまいました。なるほど、これがHBSで言う「ケースメソッド」なのです。

実は、彼の「ケースメソッド」のテキスト&ケース集の一番最初に「Because Wisdom Can't be told(知恵はしゃべるだけでは伝わらない)」という、HBSの有名な論文が入れてありました。この論文は最初一通り読んだつもりでいたのですが、正直言って論文そのものが「要するに何が言いたいのか伝わってこない」論文で(笑)、ピンと来ていませんでした。その論文の中に、こんな一節があります。

The case system, properly used, initiates students into the ways of independent thought and responsible judgement.(ケースメソッドシステムは、正しい使い方をすれば、学生が自律的に考え、責任をもって判断するための手ほどきになる。)

最後のほうの段落にちょこっと書かれているなにげない一文なのですが、たぶんケースメソッドのエッセンスはこの一文に詰まっているのだと感じました。ガルシアポント教授は最初にこれを「To Give A Reference Model(参照モデルを与える)」という言い方で説明していました。自分が4回彼のクラスを受けてみてようやく気づいたのですが、実はこの「参照モデル」というのは(前のエントリで「あるべき姿やその枠組み」と書きましたがあれは間違いで)、「問題解決と意思決定のプロセス全体」のことを指しているのです。

つまり、せっぱ詰まった問題のケースを読み、自分だったらこうやって考えて結論を出すのだが…と思っているプロセスはたいてい間違っているので、そのうち繰り返していくに連れて、だんだん講師が駆使する問題解決のプロセスと同じような考え方で見ていけばどうなるだろうか、と予習段階から考え始めます。そこで初めて「自分で、問題解決を考える」道筋が見えてくるのですね。彼が「クラス展開上の意図はない」と言い張り続けるのは、「クラス展開(プロセス)そのものが学ばせたいことだから」なのです(4回目のセッションの最後に「My learning objective is the whole process of the class.」と明言していました)。

HBSやIESEにあってグロービスにないものは何だろうと考えていった結果、「クラス内で『これが今日皆さんに学んでほしかったことです』とは一言も説明されないが、クラスそのものが学びのエクササイズであるようなクラス」だというのが、僕の思い至った結論です。

しかし、こうしたクラススタイルが「学習」として成立するためにはいくつかの条件が満たされる必要があります。それはたとえば、「ぐだぐだ文句を言わずにとにかく6回なり10回なり、こうしたトレーニングを黙って受け続ける高いモチベーションを持ち」、「ケースを読まずに授業に出てくるようなことは決してせず」、「あらゆる領域の経営学に関する基本的な知識は一通り持ち合わせており」、「受けたクラスから自分は何を学んだのか、グループではなく個人で振り返り、自分の内面を観照できる」ような優れた受講生の集団と、「あらゆる分野の経営学の知識を一通り身につけており」、「どんな角度から問題を与えられてもきちんと問題を切り分けて筋道立てて細部まで議論できる、実際のビジネスリーダーとして秀でたバランスと経営能力を持つ」講師の存在、そして最も重要なのが「講師が受講生の面倒を見なくても、自律的にグループワークや振り返りなどが十分行われる(=勉強のための時間が十分ある)環境に受講生がいること」などです。

昨日の1限の「ファカルティ・ディベロップメント」のクラスでは、バスケスドデロ教授が「皆さんが働いている時間を教育、研究、マネジメントに切り分けたらそれぞれ何時間ぐらいになるか」というのをクラス内で実際に計算してみせてくれていて、それを見ていて思ったのですが、パートタイムMBAでは問題にならなかったことが、フルタイムMBAでは大きな問題になるということに気がつきます。それは「講師と学生の学習に費やせる時間の差」です。

今のグロービスは事前の予習課題は設問形式ですべて与え(=ヒントを出し)、事前勉強会をして来ていない受講生にもメーリングリストなどで丁寧にフォローをし、クラス内でのグループワーク時間を与え、時には講師が介入して手助けまでし、そしてクラスセッションでは「今日皆さんに絶対学んでもらいたかったこと」というスライドまで用意して復習の手助けにしています。受講生にとってはクラスに来て何かを得て帰るために極めて効率的な仕組みではありますが、講師にとっては実際問題、2週間に1回のペースだから何とかなっているけれども、フルタイムで毎週2コマのペースで教えるなんてことをした途端、時間がいくらあっても足らなくなってしまうでしょう。

上に書かれているような、本当のHBS式の「ケースメソッド」が成立する条件を完全に満たすのはとても難しいことです。でも、フルタイムMBAをやる時には、どこかでこれらのシステムを導入しないといけないのだろうと感じました。今のグロービスの仕組みは「受講生にはあまり予習時間がなく」、「講師の側には相対的にたっぷり時間がある」というギャップを前提に設計されているものだと思います。フルタイムMBAとパートタイムMBAの最大の差は、このギャップが逆転することです。フルタイムMBAのコンテンツを考える時、こうした視点をもつ必要があるのだということ、そしておそらくそういう環境になって初めて実現できる学習プログラムというのもあり得るのだということを、少しかいま見ることができた気がします。